著者が日本からフランスに渡って料理人として経験したエピソードを紹介しながら、この方の仕事論を伝えていく作品。
皿洗いからスタートして劣悪な環境で過ごしたり、フランス語全く話せなかったりと強めの苦労話もありつつ、そこで出会った人や経験から自分が学んだことを共有してくれる。
欲深さがない著者の生き方は新鮮だったし、仕事に対して熱さはありつつも、謙虚さが大事というメッセージを受け取った。
以下、引用です。
今、料理人の生活を若い頃からくりかえすかと訊かれたとしたら、正直なところ、ちょっと勘弁してください、と思う面もあるのです。しかし、若い頃はそのつらさが何だかよくわからないから、怖いけどやれちゃいますよね。わからないがゆえにやれちゃう。若さのすばらしさって、きっとそういう「あまりわかっていない」ということですよ。柿さを感じても、若い人はわからないまま突っ走る。いつのまにかやり遂げてしまう。だから、若さというものは、大事にしないともったいない
p.8
自分はここ数年なにかにつけて怖がっていることが多い。
若くなくなっても飛び込んでもやっていけるという自信を持つことで、思い切りの良さは持っていたい。
相手に不快感を与えることを怖がったり、職場でのつきあいがうまくいくことだけを願って人との友好関係を壊せないような人は、結局何にも踏み込めない無能な人です。日本ではぼくは割と軋轢を起こしてしまうほうで、生意気だと言われたけれども、相互理解のためには多少の軋轢があってもいい。というか、むしろ必要な作業であるとさえ思った。調理場でさっきまでほんとうに大声でケンカをやっていた同僚ふたりが、五分もしたらカフェで白ワインかなんかを飲んで楽しく話している。そんな姿を見ているうちにぼくも「不満があるのに黙っているのは罪だ」と思うようになりました。最初はその切り替えが理解できなかったけれども
p.23
喧嘩はしなくて良いと思うけど、相手に遠慮して指摘しないときがあるので自分の主張をできるようにしたい。
良い仕事をするという軸で動いていれば自ずと性格を変えなくても良いはず。
もちろん、五時から女の子とデートをしにいくような人のことを、うらやましくて仕方がなかったですよ。ぼくも二〇代前半で、遊びたい盛りだった。でも、つぼくもそろそろ起死回生をはかりたい」と考えていたのです。それまでの、いつも後悔しながら暮らしていた自分のカラを、今度こそ破りたいと思っていた。自分の習慣を変えずに流れるままに過ごしていたら、きっと一〇年後も人をうらやんでいるに違いない。モテる人がうらやましいし、仕事のできる人がうらやましい。生き方を変えなければ、異性のことも仕事のこともどっちつかずで、満たされないままの一〇年後を迎えるに違いない。だったら、ぼくは仕事以外のものは捨てよう。ぽくには資質がないのだから、やりすぎぐらいが当たり前のはずだ。「やりすぎを自分の楽にしなけりゃ、人と同じ水準は保てまい」というぽくの仕事への基本方針は、この時からはじまったように思います。
p.36
自分は今崖っぷちとかではないけど、飛躍するために生き方を変えなければならないと思った。
緩やかに落ちていくのを避けたい。
限界以上の仕事を続けていく生活が一〇年二〇年続いたら、どうなるだろうか?その成果だけが楽しみだった。苦しいけれど、実際にフランスの調理場で働いてみると、一回目よりも二回目のほうが仕事ははかどる。二回目よりは三回目のほうがよくできる。そんな実感がありました。続けていれば、居眠りしながらでも今の仕事はできるようになるのです。毎日の習慣は恐ろしいものがありますよ。そして「毎日やっている習慣を、他人はその人の人格として認めてくれる」という法則のようなものを、ぼくは、ずっとあとになって知ることになりました。二三歳から続けた習慣に、ぼくの場合は報酬と立場がついてきた。毎日やっていることを大事にすればおのずと階段が見えてくるものなのですね。
p.37
習慣の話。
今の努力を10年以上続けてワクワクする感じが欲しい。
それが少しずつうまくいくにしたがって、「言葉というものは、人と人とのかけ橋であり、自分とまわりが一緒に生きていく上での潤滑油でもあり、個人がやすらぐメロディーでもあるのだなぁ」と思えるようになってきました。人に言われた言葉をくりかえしたり、意味を理解する作業が、自分なりの「やすらぎ」になっていった。「言葉は体を作るものだ」とも思っています。大事だなと思うことは、自分なりに言葉にして何回も反しますよね。「そうだよな、こうやったほうがいいよなぁ」それを体現することで自分の身になっていく。他人から見た「ぼくの人格や能力」を作るもとが、毎日問いかけている言葉でしょう?つまり、自分で自分を作っていくものは、「これからこうやるんだ」という宣言なのではないかと感じているのです。ノイローゼになりそうな状態の時に、自分で自分に大丈夫だと言い聞かせる中で、「自分の人間性の重しのような役割をしているものは、言葉なんだ」ということが、とてもよくわかりました。
p.47
大事なことは自分なりに言葉にして、それを体現することで人格となっていく。
コーヒーを媒体にして、別のことを考えている。そういう人がクリエイターなのだと思います。他人と何の変わりのないものを食べて、他人と同じように暮らしていても、頭の中だけはまったく別。思考回路が別なわけですから。静かなのにアイデアに満ちているベルナールに会ったことは、ものすごくショックだった。息まいていないのがすばらしい。思惑を超えたことをやる人って、何か「静か」ですよね?さわやかで健やかで人知れず生きてて、だけどやるぞという時にはぶっちぎる。ふつうにしているけどやる時はやるというのが、すごい人なんじゃないかなぁと感じます。「ふつう」って、無味無臭で透明人間なんですよ。
p.127
常日頃アイデアを生む姿勢。
生命力が溢れるように仕事をしていれば、つまり、生きている限りは炎が宿るようなものでしょう。その状態に至ることができたら、仕事をしていても歯を磨いていても遊んでいても、常に同じ意識を保てるのです。しかも楽しい。ほくが経験したことで言いますと、その意味での「楽しさ」というものは、きっと、苦しさを抜けていないと掴めないんだと思います。「板一枚の下が、もう深海だ」とでもいうような意識を経たあとに、最高の楽しさがやってくるような・・・・・ものごとに一面があるとしたら、必ず「裏面」が等身大ではりついて成り立っていると思うのです。だから、表と裏の両方の知識と経験を操縦できる自分になりたいと思っています。例えば、料理と廃棄するゴミは表裏一体です。清潔な部分を欲しがるならば、廃棄するものも、同じぐらいのパワーで処理する必要がありますからね
p.163
生命力とか生理の力みたいな話がよく出てくる。
要は腹落ちしてとか無意識レベルまで刷り込んでやるとかそういう話なんだと思う。
見習いの頃からすれば夢のような職域に入った時にも、最初は気恥ずかしさがあったりうれしさが込みあげたりしますが、動き出すと違和感を抱いたことはありません。もう動けるようになっていて、その動きを任されるというか。二段跳び三段跳びの生き方ももちろんあるけれど、ぼくの場合には、「まわり道だけど、景色もいいし見るところも多い」というのがいいなぁと思ったのです。スピードレースをしている時には見えないものを楽しむ、というやり方が、個人的にはとても好きなのです。
p.189
自分が好きなやり方、生き方を見つけてそれに対して素直に生きる。
自分の置かれた立場で、精一杯やって、楽しんで、それでいいんだよなぁ」そう思うと、肩の力が抜けました。澱しく、あっちを求めて、こっちを求めてと小賢しく動く必要もない。自分の立場はこうだから、今はこうすべしみたいな箇条書きの生き方をする必要もない。いいところだけを求めるのではなくて、いいも悪いも、「ないまぜ」にした中にこそ、うまみが出てきている人のことが、ぼくは好きなんです。
p.278
大きな結果は自分の外側で動いているから、気にせずに自分のサイズの生活の中で満喫していれば良いんだよという話。
こういう境地に至りたい。